@article{oai:hagoromo.repo.nii.ac.jp:00000046, author = {今井, 俊夫 and Imai, Toshio}, journal = {羽衣国際大学人間生活学部研究紀要, Bulletin of Hagoromo University of International Studies}, month = {Mar}, note = {「紀伊水門(きのみなと)」は、5世紀ころまでに紀氏の治める和歌山の紀ノ川河口に設営され、ヤマト政権の外港として重要な役割を担った。『古事記』の「神武東征」に語られた紀国「男之水門(おのみなと)」は、和歌山市有田屋町に在り紀伊水門の一角を占めたと仮定すると、紀伊水門の中心部に男之水門・国懸(くにかかす)神宮・竈山(かまやま)神社・矢宮(やのみや)神社の四地点を角とする矩形の「結界」が現れる。その対角線の交点は、古代の大宅郷が置かれていた和歌山市手平にあたる。手平は紀伊水門結界の中心「神籬(ひもろぎ)」といえる。それら五社は更に、元伊勢の濱宮(はまのみや)に集まる。濱宮の真北に「鳴滝遺跡(5世紀前半の大規模倉庫群)」が在り、手平は正に濱宮と鳴滝遺跡の間を二分した位置に在る。鳴滝遺跡から更に軸線を北へ延長すると大阪府岬町淡輪に至る。濱宮・手平・鳴滝遺跡・淡輪(医王寺跡付近)は南北軸(レイライン)上に等間隔に並ぶ。鳴滝遺跡の位置に意味があり、淡輪も紀伊水門の機関に属し紀氏と深い関係があることを見いだした。濱宮、車駕之古址(しゃかのこし)古墳、弘西(名草池南側)を頂点とする三角形は紀伊水門を俯瞰した広域な結界といえる。}, pages = {53--65}, title = {5、6世紀ころの紀伊水門について、歴史地理的一考察}, volume = {18}, year = {2023}, yomi = {イマイ, トシオ} }